広島郷土史探訪シリーズⅡ 消された広島の黄幡信仰

 このサイトは、郷土史を探訪するためのサイトです。特定の宗教や信仰を勧誘する目的はありません。

  古文書を引用する場合、原則的に、字体と仮名づかいは現代のものに改めます。

 

 現在の広島市と、その周辺地域では、「黄幡」という中国由来の神が信仰されていたらしい。庶民には、「おんばんさん」という愛称で親しまれていた。

 今でも、広島市安佐南区には、黄幡神社が多数存在する。しかし、祭神は、別の神に変更されている。

 黄幡神社(旧称を含む)の分布は、安芸武田氏の勢力範囲とほぼ一致している。

 江戸時代になると、黄幡大明神(現在の比治山神社)が、この地域の黄幡信仰の中心地になったと推察できる。

 明治の神仏分離により、外来の神を神社に祀ることが禁止された。ここで、広島の黄幡信仰は抹殺された。

 今でも、「黄幡」という名字の人がいちばん多い都道府県は、広島県である。しかも、広島市安佐南区に集中している。

 

 第1章、真幡神社(広島市南区大河町)の鳥居の額には「黄幡神社」と刻まれている

 第2章、比治山神社は、この地域の黄幡信仰の一大拠点だったのか

 第3章、比治山神社の原点は、俗称・黄幡谷にあった

 第4章、真幡社(広島市安佐南区山本)をめぐる謎

 第5章、盗まれた(?)ご神体の謎 

 第6章、真幡社(広島市安佐南区山本)の社伝の総括と、東山本村の悲劇

 第7章、広島市内で最大規模の黄幡神社(安佐南区緑井)

 第8章、中組町内のおんばんさん

 第9章、黄幡神社(安佐南区緑井)の社伝と、河川氾濫の記録

 第10章、黄幡神社(広島市安佐南区川内)と、川内水軍衆

 第11章、堤平神社その1、寛政8年「辰年の洪水」 

 第12章、堤平神社その2、北ノ庄村と安の庄村

 第13章、堤平神社その3、古代山陽道と太田川水系が交差する交通の要衝

 第13章、堤平神社その4、第1回めの遷座

 第14章、堤平神社その5、第2回めの遷座

 15章、堤平神社その6、黄幡という名字をもつ人々

 16章、広島県安芸郡府中町の黄幡碑と府中村古跡帖

 17章、尾首部落共同体の産土神

 第18章、府中町の黄幡碑と、多家神社の関係

 第19章、「おんばん」を正式名称とする黄幡神社

 第20章、恵毘須神社内にあるおんばんさん(武士供養の祠)

 第21章、安芸武田氏の滅亡と、おんばんさん(武士供養の祠)

 第22章、中調子八幡宮内の真幡社(旧、黄幡社)

 第23章、中調子八幡宮内の天満宮

 第24章、実在しない安芸武田家当主・武田義信の謎

 第25章、温井八幡神社その1、この地域の川の歴史

 第26章、温井八幡神社その2、安芸武田系開拓農民

 第27章、温井八幡神社その3、川内水軍衆と真宗寺院

 

第1章、真幡神社(広島市南区大河町)の鳥居の額には「黄幡神社」と刻まれている

 この神社は、真幡神社(広島市南区北大河町23-17)です。同じ敷地内に、地蔵寺という禅宗のお寺があります。江戸時代までは、神仏習合であったはずです。まずは、神社の社伝です。

 祭神 泉津道守神(ヨモツチモリノカミ)

 相殿神 寒座三柱神(サヤリマスミハシラノカミ)、金山毘古神(カナヤマヒコノカミ)

 当浦(大河浦のこと)は、荒天の際は海陸ともに往来極めて困難であって、災難を受けることが度々であった。そこで、神助を仰(あお)がんと1617年社殿を建てて黄幡社を勧請す。

 背景の山は、黄金山(おうごんざん)です。江戸時代中期まで、黄金山は、広島湾にうかぶ島でした。広島藩の干拓事業により、1662年に陸続きとなりました。かつての島の名前は、仁保島です。仁保島には7つの入江があり、仁保七浦と呼ばれていました。大河浦(おおこうら)は、仁保七浦のひとつです。そこは、交通の難所でした。そこで、1617年(徳川家康が死亡した年の翌年)、ここに黄幡社を建てました。

 

この社伝には、4つの謎があります。

 謎1)黄幡神とは、どんな神か?

 謎2)どうして、社名と祭神が変更になったのか?

 謎3)今の祭神である泉津道守神(ヨモツチモリノカミ)や、寒座三柱神とは、どんな神か?

 謎1)黄幡神は、本来、中国の軍神です。日本では、道祖神として信仰されました。道祖神は、道端に祭られる交通安全の神です。疫病や悪霊を防ぐ神として、村の境に祭られることもあります。

 ここが交通の難所だから、黄幡社が建てられたのです。

  2)明治初期に、神仏分離令が発令されました。神仏分離とは、単にお寺と神社を区別する、というだけのものではありません。外来の神を神社に祀ることが、禁止されました。そこで、名前を真幡神社と和風に改め、メイド・イン・ジャパンをよそおったのです。それでも、鳥居には「黄幡神社」と彫ってあります。

 神仏分離令により、他の多くの黄幡社が、社名と祭神を変更しました。

広島市安芸区畑賀町寺迫132番地の大原神社も、別名は黄幡社です。そして、現在の祭神は泉津道守神(ヨモツチモリノカミ)、植山姫命(ハニヤマヒメノミコト)、土安姫命(ハニヤスヒメノミコト)です。

堤平神社(ていへいじんじゃ、第11章)も、かつては黄幡社でしたが、現在の祭神は泉津導守神です。漢字で書けば、「道」と「導」が違っています。しかし、読み方は同じです。同社の社伝には、「鎮守祭神は泉津導守神にして、塞り(さえぎり?)の神とも申す」と記載されています。ヨモツチモリノカミは、「塞の神(境界を守る神)」でもあると信じられていたようです。

広島県大竹市立戸1丁目14-26にある真幡神社も、江戸時代は黄幡社でした。祭神は、埴安彦神(ハニヤスヒコノカミ)です。

広島市東区福田町には、今でも黄幡神社があります。祭神は、泉津道守神です。

 広島市東区中山中町12-41の大原神社も、かつては黄幡社でした。

 かつての黄幡神社の社名と祭神には、一定の法則があります。

 社名の多くは、真幡神社に変更されました。また、一部は、大原神社に変更されています。真幡神社としておけば、「幡」の一文字は残ります。そして、黄幡(オウバン)と大原(オオハラ)は、かな文字で表記すれば似ています。人々の本心では、黄幡信仰を捨てたくはなかったのでしょう。

 かつての黄幡神社の祭神は、1)ヨモツミチジノカミ(泉津道守神、泉津導守神)、2)塞(さい)の神系(寒座三柱神、「塞りの神とも申す」)、3)火の神系(金山毘古神、植山姫命、土安姫命、埴安彦神)などに変更されています。「火の神系」の意味には、後ほど説明いたします。

3)本殿に祭られている泉津道守神(ヨモツチモリノカミ)は、この世界と黄泉の国(ヨミノクニ、死後の世界)の境を守る番人です。ある意味で、道祖神(境界を守って疫病や悪霊を防ぐ神)と言えます。

 『日本書紀』巻第一(神代上)第五段に 、泉守道者(ヨモツチモリヒト)が登場します。そして、死者となったイザナミノミコト(妻)の言葉を、生きているイザナギノミコト(夫)に伝えています。この文面は、日本書記の本文ではなく、注釈です。「このような言い伝えもある」と、記載されているのです。そして、ヨモツチモリの名前は、ほとんど知られていません。

 相殿に祭られる寒座三柱神(サヤリマスミハシラノカミ)は、「寒い所に座る神」ではありません。普通は、塞三柱神と書いて、サエノミハシラノカミと読みます。「塞」は要塞の塞であり、「塞(ふさ)ぐ」という意味もあります。村の境界を守る役割の道祖神です。

 「塞神(さいのかみ)」とは、古来からある原始神の一つであり、村境に祀られ、悪疫悪神の侵入を防ぐ神であり、名称も形も様々です。

その中で、塞三柱の神とは、八衢比古命(ヤチマタヒコノミコト)・八衢比売命(ヤチマタヒメノミコト)・久那斗命(クナドノミコト)のことです。

『日本書紀』では、泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から、来名戸祖神(クナドノサエノカミ)が出現します。クナドとは、「来るな」という意味です。『古事記』では、黄泉(よみ)の国から逃げ帰ったイザナギが、袴を投げ捨てます。その袴から、道俣神(チマタノカミ)が出現します。

久那斗命(クナドノミコト)と来名戸祖神(クナドノサエノカミ)は、同一とされています。また、道俣神(チマタノカミ)と八衢比古命(ヤチマタヒコノミコト)・八衢比売命(ヤチマタヒメノミコト)は同一とされています。

 黄幡神は外来の神であり、古事記と日本書記には登場しません。黄幡神を記紀に登場する神々に当てはめようと考えた人々が、少なからずいたはずです。道祖神(境界を守る神)としての性格があるので、泉津道守神や塞の神に当てはめられたのでしょう。

 相殿には、金山毘古神(カナヤマヒコノカミ)も祭られています。通常は、金山彦神と記載されす。イザナミノミコトが火の神カグツチを産んだ時、全身に大やけどを負って死に至ります。その時の吐物から、金山毘古神(金山彦神)は出現しました。その前に、大便からは埴安彦神(ハニヤスヒコノカミ)と埴安姫神(ハニヤスヒメノカミ)が出現します。便宜的に、これ等の神々は、「火の神系」と呼ぶことにしておきます。かつての黄幡神社の一部では、明治以後、祭神が「火の神系」に置き換えられました。

 黄幡神は外国由来の神ということもあって、日本古来の神を尊いと考える人々からはあまり「高級な」神とみなされなかったのかもしれません。死後の世界と関りをもつ神と同一視されたり、あるいは、吐物や排泄物から発生したとされる神々と同一視されたりしたようです。

第2章、比治山神社は、この地域の黄幡信仰の一大拠点だったのか 

比治山神社(広島市南区比治山町5-10)の社伝です。「もと黄幡(おうばん)大明神と称し、比治山の南の谷(俗称-黄幡谷)に鎮座されていましたが、正保三年三月(西暦1646年)現在の社地に移して鎮守社となりました。当時の藩府より毎年正月門松添木、九月祭礼湯立の薪木を寄付されるなど崇められていました。明治元年、神仏分離令の際社名を改めて比治山神社と称しました」。黄幡神は、本来は中国の軍神で、日本では道祖神として信仰されました。社伝にある通り、神仏分離令により、外国の神を神社に祀ることが禁止されました。そこで社号を比治山神社に改め、祭神もオオクニヌシ、スクナヒコナ等としました。1646年(徳川家光の晩年)に移転した理由は、わかりません。私の想像では、藩主(殿様)の要請または命令だと思います。その後も、藩府から寄付を受けています。藩主には、気に入られていたのでしょう。藩主にとっても、広島城に近い方が都合が良かったのでしょう。

 では、それ以前に比治山神社(黄幡大明神)があった通称・黄幡谷は、どこなのでしょうか。

第3章、比治山神社の原点は、俗称・黄幡谷にあった

 まず、比治山神社の社伝です。「もと黄幡大明神と称して、比治山南の谷(俗称・黄幡谷)に鎮座されていた」。比治山は南北に長い山で、南側の谷は1ヶ所しかありません。この場所が黄幡谷であることを、神社の社務所の人に確認していただきました(この写真を見てもらって)。移転する前からすでに「大明神」と呼ばれていたのですから、かなりの規模はあったと思われます。比治山下公園(広島市南区比治山本町8)の、野球用のグラウンドと、テニスコートと、児童公園を併せると、ほぼ今の比治山神社の敷地の面積に匹敵します(私の目分量ですが)。

この場所には、縄文時代の貝塚がありました。古くから、人々の営みがあった所です。かつての「黄幡谷」の方が、聖地にはふさわしいのではないでしょうか?それでも移転したのは、広島藩が決めたことでしょう。当時比治山は、広島藩の所有林でした。藩が認めなければ、絶対に移転はできないはずです。実は、1646年の比治山神社の移転には、大きな謎があるのです。広島市安佐南区の真幡社との関係です。

比治山が広島藩の藩有林であったことは、以下のサイトからの抜粋です。

比治山貝塚 – Wikipedia

第4章、真幡社(広島市安佐南区山本)をめぐる謎

 真幡社(広島市安佐南区山本9丁目20-2)のすぐ近くには、武田一族の菩提寺であった立専寺があります。この神社も、武田との関係は深かったはずです。安芸武田氏は、甲斐武田氏(武田信玄を輩出した)の親戚で、室町時代にはこの地域の守護大名として君臨しました。武田が銀山城(かなやまじょう、古くは金山城と記載)を築いた山は、今でも武田山と呼ばれます。山本地区は、城下町でした。しかし。武田は毛利元就に滅ぼされました。

 社伝の全文は、以下のサイトに掲載しています。

謎に満ちた真幡社(広島市安佐南区山本)の社伝ー消された広島の黄幡信仰追補ー

 ここでは、要点だけを記載します。

 まずは、社伝の冒頭です。

 「安芸の国守護職として鎌倉初期、武田信光。信光は新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の玄孫(げんそん、ひまご)、武田信義の子なり。初(はじめ)石和(いさわ)五郎又(また)は大膳大夫、承久(じょうきゅう)の功以てここに補せられ金山(武田山)に據(よ)り代々此の国を領し、五代武田伊豆信宗(むねのぶ)剏(はじめ)て金山城を築き子孫之を継ぐ」。

 武田信義は、源義光(通称、新羅三郎)の孫で、源平の合戦で活躍しました。武田信義の五男が、武田信光です。石和五郎は、信光の別名です。その役職は、大膳大夫でした。武田信光は、承久の乱(1221年)の功績により、安芸と甲斐の両国を領有することになりました。

 冒頭から、難解な文章が続きます。この部分は、芸藩通志(広島藩の公式記録)からの引用です。「武田信光 信光は新羅三郎義光の玄孫にて武田信義の子なり、初石和(いさわ)五郎又大膳大夫、承久の功を以、安芸の国守護職に補せられる。金山城 即武田山なり、武田伊豆信宗、剏て此に築き、子孫相続て居守す」

 この社伝は、不可解です。社伝冒頭に武田氏のことが、長々と書かれています。

 ところが、武田とこの神社の関係が書かれていません。そして、社伝の途中で急に、「古老の伝に黄幡さん(今の俗称)は村民の崇拝厚かりしに」と記されます。

 1560年(永禄三年)に毛利元就は西山本村に平山八幡宮を建てて、直営(?)とみなした。そして、八幡宮の本殿の梁(はり)の上の蟆股(カエルマタ)には、毛利の家紋が刻まれた。真幡社はその末社とみなされ、社紋に毛利家の家紋をかげることになった。少なくとも、広島藩の公文書である芸藩通志にはそう書いてある。だが、それは事実ではない。本当は、この神社は、武田氏と関係のある黄幡信仰の神社なのだ。そのように解釈すれば、首尾一貫します。

 その続きには、「徳川幕府後期ある時、ご神体を移し去られ比治山山麓(さんろく)の黄幡社(今の比治山神社)に祀られしとなり」とあります。それだけでも、謎めいていますしかし、「ご神体は盗まれた」とする別の言い伝えがあるのです。

第5章、盗まれた(?)ご神体の謎

 立専寺住職・武田庸全氏が1939年に記した「山本史」の記述です。

 時期は不明だが、東山本の黄幡大明神(現、真幡社)のご神体を盗んで比治山の上に持ち帰って祭った者がいる。夜な夜なご神体から「山本に帰る、帰る」という声が出て、恐ろしかった。神社を東山本の方向に向けて建て直したところ、山本に帰るという声は止んだ。その神社は、比治山の黄幡神社(今の比治山神社)である。

 比治山神社が1646年に移転した、という事実とは一致します。しかし、誰が何のために盗んだのでしょうか。1646年という年は、広島城の築城から57年が経過し、その間に戦乱はほとんどなかったので、城下町はすでに整備されていたことでしょう。立地条件に恵まれて発展していく比治山神社を見て、山本地区の人は、「お株を奪われた」、「黄幡信仰の元祖は自分たちだ」という思いがあったのかもしれません。

 しかし、明治の神仏分離により、どちらの神社も「黄幡」ではなくなりました。

 上の写真は、比治山から見た広島市安佐南区山本方面です。現在の比治山神社は、西向きに建てられています。大雑把にいえば、山本地区の方向です。実際に、比治山下公園(移転前の比治山神社があったと私が推定する場所)から、山本方面は見えません。

 本当は怖い武田山から宇品の花火見学: 武田山つれづれ日記

 

 昭和146月に山本9丁目の立専寺住職武田庸全氏が上梓した「山本史」の中の「敬神並宗教史」。

 

【引用開始】

 

当東山本には徃昔より黄幡大明神を鎮祭したる黄幡神社といへる小堂あり。

 

然る所その後(年時不詳)何者か社内の御祭神たる黄幡大明神の御神体を盗みて廣島の比治山の上に持ち帰り祭る、而るに夜な夜な御神体より「山本へ帰る帰る」との聲ありて実に奇瑞現はる、遂に神社を東山本の方向に向けて建て祭りしかば山本へ帰るの声止みしと、此の神社即ち比治山の黄幡神社にて今日尚存す。比治山の黄幡神社の古記録にも当社の祭神は元東山本より遷座したる旨記しありと、而し年時は其記なし。

 

此の事ありて東山本鎮座の黄幡社には祭神の御神体なくなりたれば当時当村住人大伴某なる者上京したる際京都にて猿田彦命の分霊を申し受け帰りて之の社内に安鎮し之を祭るが現在の御神体なりと、而して其の年時も不詳なり。

 

私按ずるに道の古来より当村に傳へらるる古老の説は事実ならん。

 

比治山の黄幡神社に其記録ありて以前神主が当村に取調べに来りし事あり、惜むらくは当村並びに比治山、共に其の年時を詳にせざることなり。

 

【引用終了】

 

 「山本史」は村内に見るべき郷土誌がないことを憂いた庸全氏が、病身を押して書き上げた1000ページにも及ぶ手書きの郷土史で、内容は昭和40年代に刊行されました。

投稿:ブログ管理人|2012年10月28日(日)21時38分

 以下は、私・上西の私見です。「比治山の黄幡神社の古記録にも当社の祭神は元東山本より遷座したる旨記しありと、而し年時は其記なし」と記載されていますが、原爆で焼失したかもしれません。また、今の比治山神社は黄幡信仰ではないので、このような記録を保管しておく必要もないでしょう。

第6章、真幡社(広島市安佐南区山本)の社伝の総括と、東山本村の悲劇

 安芸武田氏が銀山城(古くは、金山城と記載)を築いて以来、ここは安芸国の中心地でした。城に近い山本村の主に東部の方が、村の西部よりも繁栄していたのかもしれません。そして、山本村は1つでした。しかし、武田は毛利に滅ぼされます。戦(いくさ)が終わっても、恨みは残ります。それに対する元就の戦後処理は、巧妙でした。西山本の平山八幡神社の蟆股(かえるまた、蟇股)に毛利の家紋を掲げ、真幡神社(当時は、黄幡さん)はその末社とされました。当時の神社は公共の施設でもあったので、西部の方が発展しやすくなります。山本村は東西に分断され、武田の影響が強く残る東山本村の人々の勢力は相対的に薄められました。敵を分断させることは、元就の常套手段です。社伝の原文では、「沼田郡東山本村は昔東西一村なりしを後二村に分てりといふ」と記載されていま。社伝のこの部分も、芸藩通志からの引用です。

 さらに、毛利輝元が1590年代に広島城を築くと、この地域はますます斜陽化しました。「広島の支配者」が毛利、福島、浅野と移り変わっても、この状況は変わりません。黄幡信仰の中心も、比治山の黄幡社(現在の比治山神社)に移りました。ご神体が持ち去られたり、盗まれたりしたかは、不明です。明治の神仏分離により、黄幡と名乗ることもできなくなりました。

 それでも、広島市安佐南区には、今でも黄幡と名のつく神社が何ヶ所かあります

第7章、広島市内で最大規模の黄幡神社(安佐南区緑井)

 JR緑井駅から歩いて5分のところに、黄幡神社(広島市安佐南区緑井5丁目25-5)があります。バス停・中緑井からも、歩いて5分です。広島市内で、現在も「黄幡」という名のつく神社の中では、おそらく最大規模でしょう。

 まずは、社伝です。

 「御祭神 素戔嗚尊(スサノウノミコト)

 由緒(略記)

 中祖部落は、古(いにしえ)より南西の安川と北東の古川に挟まれ度重なる洪水による氾濫原を形成、河道沿いに自然堤防が造られ北は中組から八敷、上組と繋がり、南は日吉、大下、中須へと土手が築かれた。

 伝承によると、寛政年間(1790年代)、中祖部落の旧家・土井家の屋敷神として、屋敷内に小さな祠が祀られ、秋の収穫後、正月等多くの人が参詣するようになった。

 文政8年(18258月吉日に部落の信仰神として、自然堤防近くの現在地に移され祠を西向きに建て、家内安全、五穀豊穣、水難鎮護を祈願した。

 明治11年(1787年)68日本殿を再建、その際一時社名を真幡神社と変更した(中略)。

 大正15年、(192643日、(中略)社殿を西向きから東向きにした」。

第8章、中組町内のおんばんさん

 この写真は、2023年度の黄幡神社(緑井)の秋祭りのポスターです。中組とは、この地域の古い地名です。また、地元の町内会(緑井中組町内会)の名前でもあります。今でも、この神社は「おんばんさん」と呼ばれていることがわかります。

 社伝には、周辺地域の古い地名が書き込まれています。

 上の地図は、1966年版の5万分の1の地形図です。

 前述の中組とは、現在の緑井4丁目と5丁目の付近です。今でも、緑井5丁目には、中組会館があります。

 八敷という地名は、緑井7丁目付近です。緑井7丁目には、八敷会館と八敷公園(別名、緑井第八公園)があります。

 上組は、緑井8丁目付近です。そこに、上組集会所があります。

 中須という地名は、今でも残っています。

  社伝の中の「自然堤防」は、現在も、ほぼその形(地形)をとどめています。かつて土手(自然堤防)であった場所が、今では道路となっています(下の写真)。

第9章、黄幡神社(安佐南区緑井)の社伝、河川氾濫の記録

 社伝によると、もとは個人の屋敷神でした。1825年に、古川の自然堤防に近い現在地に移されました。明治の神仏分離により、社名を一時は真幡神社に変更しました。その点では、他の多くの黄幡神社と共通しています。それでも、この神社の社名は、本来の黄幡神社に戻りました。この地域の黄幡信仰は、根強かったのでしょう。しかし、祭神はスサノウノミコトに変更されたままです。

 社伝では、この地域の河川が氾濫を繰り返したことが記載されています。左の写真からは、川と土手と神社の位置関係が分かります。「古川の自然堤防に近い現在地に移され」と社伝に記録されています。洪水のたびに、川の流れは変わりました。現在、この川は、古川の分流となっています。右の写真は、その川底です。今では、古川の本流にも、分流にも、水はほとんど流れていません。かつては、この古川が、太田川の本流でした。そして、氾濫を繰り返しました。1607年の大洪水により、現在の太田川が本流となりました(第25章参照)。昭和の初めまで、新たな本流は「新川」と呼ばれました。この川は、今でも「古川」と呼ばれています。1967年に太田川放水路が完成するまで、広島市民は太田川の氾濫に悩まされました。

 社伝には、「家内安全、五穀豊穣、水難鎮護を祈願した」と記載されています。黄幡神は道祖神であり、境界を守る役割があります(第1章参照)。水難が多かったこの地域で、黄幡神は、土手と堤防の守ることが期待されたようです。詳しくは、第10章から第14章をご覧ください。

 この神社から古川を約0.6Km下ると、別の黄幡神社があります。

新旧の太田川について

第10章、黄幡神社(広島市安佐南区川内)と、川内水軍衆

この場所は、広島市安佐南区川内2町目30です。第7章の緑井に比べて、川内は地名の「知名度」が低いようです。それでも、川内は、大女優・綾瀬はるかさんの出身地です。

 社伝の全文です。

 「創建の時期は記述資料に乏しくて不明であるが、安芸国守護職である武田氏所属の川内水軍の総帥・福島大和守親長が、川の内堤防守護神として、北の庄堤防寄りに創設鎮座されたものと伝えられ、来(いらい)「おんばんさん」と呼ばれ崇拝されてきた。

 1820年(文政3年)庄屋直三郎組頭茂三郎によって下温井堤防上に再建され、神殿は室町時代の建築技法が用いられた。当時の棟札には「黄幡社」と記されている。

 1927年(昭和2年)10月、神殿を復元し、幣殿・拝殿を新築。このたびは山陽自動車道の建設により復元再建された」。

       1987年(昭和62年)10月吉日

現在の広島市安佐南区川内が、戦国時代には、川内水軍衆の拠点でした。太田川下流と広島湾北部が、川ノ内水軍衆の支配水域でした。その水軍の総帥が、福島一族です。毛利輝元と同じ時代に、福島大和守元長という人物がいます(第12章)。黄幡神社を創建した福島親長は元長の義父と言われます。福島元長は、親長の娘宮福と結婚して福島家を継ぎました(以下のサイトの、福島元長の項目)。広島の黄幡信仰は安芸武田氏と何らかの関係がある、という仮説を私はもっています。川ノ内水軍衆は、安芸武田氏に所属していました。

現在の川内地区が、江戸時代には、北部の温井村と南部の中調子村に分かれました((第22章参照)。さらに、温井村は、北から、上温井、中温井、下温井と分けられました。かつてのそれぞれの地域に対応して、上温井集会所(川内6目)、中温井集会所(川内5丁目)、下温井会館(川内2丁目)などの施設が現存しています。

社伝では、1820年に下温井堤防上に再建された、と記載されています。また、この神社も、「おんばんさん」と呼ばれていることがわかります。

社伝の中の「北の庄」については、第11章で解説します。

第11章、堤平神社その1、寛政8年「辰年の洪水」

 堤平神社(ていへいじんじゃ、広島市安佐南区東野3丁目9-7)です。現在は、弘住神社(こうすみじんじゃ)の兼務神社となっています。かつては、「黄幡社」でした。

 

 民俗学者・井手本護氏は、「③おんばんさん」(ここでは堤平神社を指す)のすぐ近くで生まれ育ちました。そして、②神としての性格の判りにくい黄幡神が、広島県西部(③安芸の国)、とりわけ①安佐地区で信仰されていたことに着目しました(丸数字は、同氏の論文からの引用)。

 井手本氏は、1819年(文政2年)に編纂された④郡中国郡志(芸藩通史の元資料)の記述に基づいて、この地域の黄幡信仰を調査しました。

 ④郡中国郡志には、この神社のことが、「小田村八幡宮(現在の弘住神社)寄合(よりあい)に候(そうろう)」と記載されています。江戸時代から、すでに、神主は沓内氏であったようです。

 ⑥現在(1954-2022)の境内地は、寛政8年「辰の年の大水」(現行暦1796年6月5日)の決壊口です。この地域だけで15人の住民が犠牲になりました(広島藩全体では死者169名)。

 ⑤「堤平」の社名は、1871年(明治四年)につけられました。堤防の安泰を願う、という意味です。

⑦1954年、建設省による太田川改修工事のため、約100メートル南側から、現在地に遷座しました。

⑧現在の祭神は、泉津道導神(ヨモツミチジノカミ)です。⑨市内の大河の黄幡さん(広島市南区大河の真幡神社)も、このように祭神が変更になっています。⑩江戸時代後半には、国学の普及により、黄幡神とヨモツミチジノカミが同一と考えられていたようです。

参考文献)井手本衛:安佐地区の黄幡さん,-その今と昔―.広島民俗第25,19866.

第12章、堤平神社その2、北ノ庄村と安の庄村

この神社の本殿の正面には、「堤平神社達築記」が掲げられています。そして、向かって左側に、「堤平神社遷座概要」があります。また、左右に額絵が掲げてあります。2023年に、広島市立大学の学生が、この2枚の額絵を修復(再現模写)しました。

まずは、「堤平神社達築記」の冒頭です。

「当東野部落は、元和5年、北ノ庄村と称し、中筋、古市の二部落を併せて一村たり。寛文年間(1661-1673年)、独立して東野村と称せり。広(こう)5町余、袤(ぼう)〇13町の平野にして、山林なく、太田川の清流その東境を遇々?明治22年(1889年)、町村制の実施に当たり、復(また)併合し三川村と改む」。

社伝の冒頭の部分は、「芸藩通志」の「沼田郡村里」の項目からの引用です。「東野村、当村もと北庄村と呼びて、中筋古市村と合わせて一村たり。寛文中に分かちて二村とする。広(こう)五町余、袤(ぼう)十三町」

広袤(こうぼう)という今ではほとんど使われない言葉が、辞書には載っています。「広〇〇町、袤〇〇町」という表現は、江戸時代の公文書によく使われます。広とは東西の長さ、袤とは南北の長さです。

かつて、東野、中筋、古市の3つの村が、併せて「北の庄村」と呼ばれていました。川内の黄幡神社も、最初は「北の庄堤防寄りに創設鎮座された」と社伝には記録されています(第9章)。

 北ノ庄村の西隣は、「安の荘村」と呼ばれていました。安川の流域なので、このように名づけられました。後に、安の庄は、上安村と下安村に分かれました。上安という地名は、今でも残っています。下安村は、現在の広島市安佐南区祇園を中心とした地域です。

第13章、堤平神社その3、古代山陽道と太田川水系が交差する交通の要衝

 明治以前、一度に大量の人または物を運ぶ手段は、船だけでした。そして、東野、中筋、古市は、水陸の交通の要衝でした。

 太田川下流域は、平安時代以来、安芸における交通・商業の一大拠点であった。内陸部にある荘園の年貢は、太田川を下り、河口にいったん陸揚げされて、内海航路に中継される結節点となっていた(河村昭一「安芸武田氏」戎光祥出版162ページ)。

 しかも、古代山陽道が、東野、中筋、古市を横切っていました。

 この地域の水上を支配したのが福島氏であり、陸上を支配したのが安芸武田氏でした。安芸武田氏が滅亡した後、福島氏は、毛利と同盟関係を築きました。15892月、毛利輝元が広島城を築城するための実地調査を行った時、現地を案内したのが福島元長(大和守を名乗っていた)でした。

古代山陽道安佐南区散策マップ(広島市古市公民館)

 この神社の特徴のひとつは、手水鉢(ちょうずばち)が船の形をしていることです。神社の創設に、水軍または水運業の関係者が深くかかわっていたと思われます。

第14章、堤平神社その4、第1回めの遷座

 「堤平神社達築記」の続きです。

 「鎮守祭神は泉津導守神にして塞り(さえぎり?)の神とも申す。福島大和守の鎮護祈願所たりしも、同家没落の後、東野郷産土(うぶすな)神として字(あざ)宮ノ森に奉祀(ほうし)し、尊崇奉敬(そんすうほうけい)し、黄幡社と唱えたりしが、後現地に奉遷(ほうせん)したるものなり。而(しか)して、明治維新に際して堤平神社と改称せらる」。

 堤平(ていへい)という名前は、堤防の安全を願うという意味です(第13章)。

 鎮守祭神の泉津導守神(ヨモツチモリノカミ)は、第1章の泉津道守神と同じでしょう。漢字の表記では1文字違いで、読み方は同じです。日本書記の注釈に登場する神で、道祖神に近い役割を担っています。その別名が「塞りの神」であると、ここでは記されています。

 日本書記に泉守道者(ヨモツチモリビト、第1章)が登場する前後に、同じく、この世界と死後の世界の境界を守る番人として、古事記には「坐黄泉戸大神(サヨリマスヨミドノオオカミ)」が、日本書紀には「泉門之大神(ヨミトサエノオオカミ)」が登場します。これらが、同一の神とみなされることもあります。そして、塞の神(村境や峠などに置かれる外部からの疫病や悪霊などを防ぐ神)の源流と考えられます。

道返之大神(ちがえしのおおかみ) - 神魔精妖名辞典

 広島市南区の真幡神社(第1章)でも、ヨモツチモリノカミともに、寒座三柱神(サヤリマスミハシラノカミ)が祀られています。明治の神仏分離により、祭神と社名と変更を余儀なくされたことも、第1章の真幡神社(広島市南区)の場合と同じです。

 創設者は、福島大和守とされています。福島一族の中で、大和守(本来なら奈良県知事、という意味)を名乗った人物は多数います。そのうちの誰がこの神社を創建したのかは、わかりません。

 福島氏が没落した理由は、想像できます。江戸時代になると、水軍の活動が許されなくなりました。武装した私兵(民兵)が、川や海で戦闘行為を行ったり、船から通行料を徴取したりすることができなくなったのです。さらに、広島城とその城下町が地域の中心となって、この地域(現在の広島市安佐南区)が斜陽化したため、福島氏は収入源と影響力を失ったのでしょう。なお、広島城の2代目城主・福島正則とは全くの別人で、家系も別です。

 上記の「堤平神社達築記」のなかで、「宮ノ森に奉祀(ほうし)し、尊崇奉敬(そんすうほうけい)し、黄幡社と唱えたりしが、後現地に奉遷(ほうせん)したる」と記載されています。元の場所は、どこでしょうか?地名が「宮の森」なので、遠く離れた場所ではないはずです。

 堤平神社から太田川を100mさかのぼると、そこに公園があります(上の写真)。石が多いので、子供たちは「石公園」と呼んでいます。正式な名称は、役所の人にもわかりません。そこにある石は、人工的に並べられたり、積み上げられたりしています。また、この公園は、桜の名所でもあります。外から見れば、鎮守の森のようにも見えます。ここが、堤平神社(当時は黄幡社)が最初にあった場所かもしれません。権勢を誇った福島大和守が、桜に囲まれた別荘を建てて、敷地内に祈願所を設けたように思えます(どこまでも、推測です)。

 「堤平神社達築記」の続きです。

 抑〇(そもそも?)社殿は天保年間の建築にして、狭隘(きょうあい)且(かつ)腐朽(ふきゅう、)に属し、献饌奉幣(けんせんほうへい)に適せず。茲(ここ)に於(お)いて氏子総代及(および)有志(の)者相謀(あいあか)り改築の議を決し、直ちに浄財を醵出(きょしゅつ)し、敷地を拡張し、拝幣殿新築を企画し、昭和9年(1934年)8月の吉日を卜(ぼく、うらない)し、地鎮祭を行い、斎戒以て良材を撰修し、起工式を挙行せり。爾来(いらい)建築委員、工匠、昼夜奮勤努力し、昭和10年(1935年)1013日を以て竣工の盛莫を執行するを得たり。(中略)

 昭和1010月吉辰

 社掌 沓内慶英

 氏子総代 黄幡元一

 会計係 黄幡千三人

第15章、堤平神社その5、第2回めの遷座

 続いて、「堤平神社遷座概要」です。

 「当・堤平神社は、元・宮の森1187番地に鎮座ましませしが、昭和27年(1952年)以来、建設省に依り、太田川改修工事に伴い、移転の止むなきに至り、氏子一同相計り、宮の森1197番地にの〇き地に遷座せらるることになり、昭和29年(1954年)214日地鎮祭を行い、爾(その)後、氏子一同の勤労奉仕並(ならびに)各請負(うけおい)業者により移転工事は着々進行。昭和29929日、遷座式典を挙行す。

 (中略)

 神主 沓内慶英

 総代 黄幡昇(以下略)」

 元の場所は、東野ポンプ場(次の動画を参照)の沖合の、川の砂浜です。川が増水すれば、水没します。

 「堤平神社遷座概要」には、「宮の森1187番地から1197番地に移転した」と記載されています。この地域のかつての地名は、宮の森でした。実際に、森のように竹が茂っていました。土手を補強するために竹を植え、土手の道は昼間も暗かったと言われています。この場所がかつての洪水の決壊口であったため(第11章)、土手を補強する必要があったのでしょう。

追記

 2023年中に、第3回目の遷座が行われました。その様子が、20231226日 火曜日11401154NHK総合「ひるまえ直送便」で放送されました。

 

16章、堤平神社その6、黄幡という名字をもつ人々

堤平神社達築記は、1935年(昭和10年)に作成されたようです。その中に、黄幡という名字をもつ人が、2名ほど登場しています。氏子総代の1人が黄幡元一さんであり、会計係の1人が黄幡千三人さんです。さらに、堤平神社遷座概要にも、黄幡という名字の人が登場します。総代の、黄幡昇さんです。

黄幡という名字の人がいちばん多くいる都道府県は、広島県です。しかも、堤平神社のある安佐南区東野に集中しています。もしかしたら、ここが広島の黄幡信仰発祥の地であったのかもしれません。

「黄幡」(おうばん)さんの名字の由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典・人名力

17章、広島県安芸郡府中町の黄幡碑と府中村古跡帖

広島県安芸郡府中町宮の町4丁目の、黄幡碑です。2021年秋に私がここを訪れた時は、日没の直前でした。

まずは、碑文です。

 「此(この)地、近年まで、北面に竹藪(たけやぶ)楠木(くすのき)相茂り、南面に畑地を形成した小丘の尾崎であった。識者によれば(?)、訛って『おんばんさん』と呼称した往昔の黄幡神祠の址である。正徳2年(1712)府中村古跡帖に『一 黄幡神 小社御座候但神木楠御座候処ニ五年以前ニ枯申候 八幡神主三宅中務ヘ被出候』と記し(以下略)」。

広島市とその周辺の黄幡神社の多くが、「おんばんさん」という愛称で呼ばれていました。広島市安佐南区川内の黄幡神社の社伝にも、そのように記載されています(第10章参照)。庶民から、親しまれていたのでしょう。

 「府中村古跡帖」は、広島県安芸郡府中町の公式サイトのなかの、「出合清水・今出川清水の名称(位置)訂正説明資料2」という資料に収録されています。活字で読むことができます。

「一 黄幡神 小社(しょうしゃ)御座候(ござそうろう)但(ただし)神木楠(しんぼくくす)御座候処ニ(ござそうろうところに)、五年以前ニ(5ねんいぜんに)枯申候(かれもうしそうろう)。

 八幡神主中務へ被出候(碑文では、三宅中務となっている)」。

 ここに黄幡神を祀る小社があったことが分かります。

府中町公式サイト トップページ > 社会教育課 > 文化財 > 文化財 > 出合清水・今出川清水の名称(位置)訂正 > 出合清水・今出川清水の名称(位置)訂正説明資料2[PDFファイル/6.41MB]

18章、旧称・尾首部落共同体の産土神

 碑文の後半です。

 「この黄幡神奉斎の由来は明らかでないが、芸藩通志(広島藩の公式記録)によると、広く県下西部郡村に祀られていたものの如くである。尾首部落共同体の山の神信仰につながる産土(うぶすな)神と推定され、部落民の祭祀(さいし)の場であったことを後世に記念して碑(いしぶみ)を彫る。19713月 文学博士 広島大学教授 小林利宣 識書」。

 尾首という地名も、府中町の公式サイトで解説されています。

 「字 尾首」は、現在の住居表示では宮の町4丁目と宮の町5丁目の大部分である(宅地造成のため、地形は大きく変化した)。

 「黄幡神社」は古い記録がないために詳細は不明である。明治44年(1911年)に多家神社に合祀された。現在は宮の町4丁目に黄幡神社跡として石碑が建立されている。

府中町公式サイト トップページ > 組織でさがす > 社会教育課 > ふるさと歴史散歩 第41回~第60>51回 文化財としての地名17 昭和初期の町内会名12 尾首(広報ふちゅう平成202月号より)[PDFファイル/531KB]

17章、府中町の黄幡碑と、多家神社の関係

 安芸郡府中町宮の町4丁目の松崎八幡宮跡です。第16章の黄幡碑(同町5丁目)とは、同じ町内です。

 神武天皇が九州から大和(奈良県)に移動する途中の7年間を、(現在の)安芸郡府中町で過ごしたと、古事記には記録されています。その場所をめぐって、江戸時代中期から、松崎八幡宮と総社が、「本家争い」を繰り広げました。江戸時代の皇室の「予算」では、地方の神社を統制することはできませんでした。明治7年(1874年)に、両者を統合して、多家神社となりました。黄幡神社は、明治44年(1911年)に多家神社に合祀されました。現在の黄幡神社は、石碑だけが残っています。

府中町公式サイトトップページ > 組織でさがす > 社会教育課 > ふるさと歴史散歩 第181回~第184> 184回 松崎八幡宮と総社の争論 その9(平成314月号より)

 単に、論争しあった神社を仲裁して統合した、というだけのものではありません、明治政府は、神社合祀(じんじゃごうし)と呼ばれる宗教政策を行っていました。 

それは、「神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせて、神社の継続的経営を確立させる」というものです。

第19章、「おんばん」を正式名称とする黄幡神社

 広島市安佐南区伴中央6丁目18-7にある、平木 黄幡神社(ひらぎ おんばんじんじゃ)です。桜が咲いていました。平木(ひらぎ)は、この地域の古い名称です。すぐ近くの川(大塚川)に、平木橋という橋が架かっています。現在、この神社は、岡崎神社の飛地境内社(とびちけいだいしゃ)となっています。祭神は、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)です。地元では古くから「おんばんさん」として親しまれている、と岡崎神社のブログに記載さています。私の予測では、本来は黄幡神を祭っていたが、明治の神仏分離により祭神が変更になったと思われます。もし、何百年も前から祭神が高御産巣日神(たかみむすびのかみ)であったら、神社の名称も「黄幡」ではなくなっていたでしょう。

 今までの調査から、この地域の黄幡信仰は安芸武田氏と何か関係があったのではないか、という疑問を私は抱いてきました。

 別の疑問もあります。広島市と、その周辺地域で、多くの黄幡神社が、「おんばんさん」という愛称で庶民に親しまれていました。テレビもネットも無い時代に、どうしてこの愛称が広まったのでしょうか。

 更なる疑問です。安芸武田氏と「おんばんさん」の愛称には、何かの関係があるのでしょうか?

 実は、この神社の約3Km東側に、安芸武田氏の番兵を祀る祠があるのです。その名は、「おんばんさん」。

第20章、恵毘須神社内にあるおんばんさん(武士供養の祠)

恵毘須神社(広島市安佐南区高取南3丁目1)の敷地の中に、おんばんさん(武士供養の祠)が祀られています。

まずは、掲示板の全文です。

天文十年(1541)銀山城が毛利軍に攻め落とされ武田の武士は敗走しました。一族の子女、老人達はこの恵毘須神社近くの隠れ里といわれた場所(今の安西中学校付近まで続く谷あい)に隠れていました。その入口には大きな巌石(がんせき、いわお)が23塊あり、陰で数人の武士達が護衛していましたが、毛利軍に発見され武士達は全員殺されてしまいました。

 地元の人々は隠れ里入口の巌石を削ってお墓を造り、殺された武士達の供養をしました。子女、老人達は解放されて土着し、この長楽寺に住み着いて暮らしたといわれています。この子孫は30戸余りにおよび武田家末裔として現在でもご縁を続けています。お墓(祠)は昭和48年(1937)平和台団地ができることでこちらに移設されました。

 この祠は「おんばんさん」と呼ばれ、氏子の人は毎年23日の節分の縁日に、先祖からの習慣として「炒り豆」をお供えして先人の方々に感謝の心を捧げておられるとのことです。

 なお「おんばんさん」とは護衛していた武士達、番をしていた人達を番人と呼んだことから「おんばんさん」と呼ばれるようになったようです。(以上、掲示板の文章)

 

 この地域の「おんばんさん」とは、黄幡神の愛称であると同時に、戦死した安芸武田氏の番兵のことでもあったのかもしれません。そして、この祠では、黄幡神のことが忘れられ(あるいは、当初から黄幡神については重視されずに)、「殺された武士を供養する」という言い伝えだけが残ったのでしょうか?

 安芸武田氏と黄幡信仰の関係については、今後も調査を進めていきます。

21章、安芸武田氏の滅亡と、おんばんさん(武士供養の祠)

銀山城(当時は、金山城と表記)の城主・武田信実は、強大化していく毛利に恐れをなしました。そして、尼子を頼って山陰に亡命しました。城主がこの有様ですから、城兵たちも次々に逃亡しました。残ったわずかな城兵は、武田信重を盟主にあおいで、最後の抵抗をしました。しかし、戦上手(いくさじょうず)の毛利元就が相手では、勝てるわけがありません。15415月の銀山城(金山城)の落城により、この地域の領主としての安芸武田氏は、完全に滅亡しました。

その一方で、元就は、武田を根絶やしにはしませんでした。残された武田宗慶を、手厚く保護しました。やがて、宗慶は、周防武田氏の始祖となります。

 この状況から推察すれば、毛利が武田の「一族の子女、老人達」を解放したことは事実でしょう。しかし、籠城して抗戦した城兵の多くは、殺害されています。最後まで武田のために戦った番人の武士達が、黄幡神の通称である「おんばんさん」の名前でここに祀れたのではないでしょうか?

 なお、私が知る限り、安芸武田氏が黄幡神社を設立したという明確な記録はありません。安芸武田氏の滅亡後に建てられた黄幡神社(黄幡社)の多くに、安芸武田氏を祀る(供養する)という意味合いがあったと思われます。しかも、江戸時代の後期には、その意味がほとんど忘れられたのではないかと思います。明確な証拠はありません。次章以下で、状況証拠を示す予定です。

 その前に、護衛した武士達のご冥福をお祈りいたします。

第22章、中調子八幡宮内の真幡社(旧、黄幡社)

 中調子八幡宮(広島県広島市安佐南区川内1丁目56)です。「なかじょうしはちまんぐう」と読みます。

 「芸藩通志」沼田郡祠廟の項目に、「八幡宮、温井村にあり。八幡宮、黄幡社、並びに中調子村にあり」と記録されています。1888年に、温井村と中調子村が合併して川内村となりました。それが、現在の広島市安佐南区川内です。

 この地域の地名の変遷です。

 「厳島神社の荘園だったこの地は中世には河内郷と呼ばれ、温井、中庄司の二つの地区に分かれていた。温井とはヌケ(崩れやすい)土地の意味で、庄司は荘園を管理する役人の荘司に地名の由来がある。近世になって、この二地区は温井村、中調子村と呼ばれるようになった。庄司が調子になった由来はわからなかった。その後、河内が川内となり、現在は川内の元にこの二地区が統合されている」。

 以上は、中調子八幡宮~広島市安佐南区川内1丁目 | 大根役者」というサイトからの引用です。なお、細部には、異論もあります。

 中調子八幡宮の正面が本殿で、東側に真幡社、西側に天満宮があります。

 芸藩通志に記載された黄幡社(東側)は、明治になって真幡社に名称変更しました。今でも、鳥居には、黄幡社と記されています。

 安芸武田氏が滅亡した後も、この地域には武田に好意を抱く人々が勢力をもち続けました。その人達の間に黄幡神信仰がひろまった可能性があります。

第23章、中調子八幡宮内の天満宮

中調子八幡宮の由来は、不明です。しかし、天満宮にだけは、縁起碑があります。ところが、その内容が、謎に満ちています。

碑文です。「この天満宮は、足利時代に安芸国(あきのくに)守護職(しゅごしょく)武田(たけだ)刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)義信の祈願所として建立せられたと伝えられ、祭神は菅原道真である」。

歴代の安芸武田家の当主に、武田義信という人物は見当たりません。伝説の中にだけ存在する人物です。武田信玄の長男の武田義信という人物がいます。しかし、時代と地域がかけ離れています。明らかに別人です。

それでも、安芸武田家・武田義信が存在したとする伝説が、今も残っています。しかも、「伝説の始まり」は、広島市内に現存する大寺院の起源と関係しています。

第24章、実在しない安芸武田家当主・武田義信の謎

時系列に、述べていきます。

安芸武田家の(実在する)当主・武田信賢1420-1471)が、1459年に、甲斐(山梨県)から僧侶を招いて、仏護寺を建てさせた。

(実在の)武田義信は、武田信玄の長男であった。最初は信玄の嫡子(後継者)とみなされたが、やがて信玄によって幽閉され、1567に不審な死を遂げた。

江戸時代中期までの広島の文献では、「仏護寺は信賢が招いた」と、正確な由来が記されている。

広島藩が1822年に刊行した「知新集」に、「安芸の守護武田治信の長子義信が甲斐を訪れた時に知り合あった僧侶を安芸に招いたことが仏護寺の始まりである」と記録された。この頃から、「義信伝説」が始まったらしい。

1825年に刊行された芸藩通志では、「仏護寺、僧正信開基、正信は甲斐の人、武田の族(やから)、金山城主武田義信、正信を招いて、東国に居らしむ」と記載された。

 1908年に、かつての仏護寺は、本願寺広島別院と改称した。

 「知新集」と「芸藩通志」は、広島藩の公式記録です。地元では、「文部科学省検定の教科書」と同じくらいの権威があります。そのため、今でも、本願寺広島別院(の前身の寺院)の起源について、「安芸国守護の武田治信の嫡子刑部少輔義信が建てさせた」と記載されるネット上のサイトが多数存在します。

 なお、武田「信玄」は出家した後の名前であって、俗名は武田晴信です。伝説の「安芸武田家の治信と義信の親子」のモデルは、武田信玄(晴信)と(実在の)武田義信の親子です。

  また、本願寺広島別院の公式ホームページに、武田義信のような架空の人物は登場しません。

第25章、温井八幡神社その1、この地域の川の歴史

温井八幡神社(広島市安佐南区川内5丁目-1)です。

 本殿の東側にあるイチョウの木が有名です。広島市指定天然記念物です。一方、一部の道路地図には、西側の末社を「火之神社(ひのかみしゃ)」と記載してあります。その由来は、わかりません。

 境内の中にある掲示板に、神社の由来が記されています。言い伝えではなく、歴史に基づいた考察です。

 掲示板の中から、この地域の川の歴史に関する部分を拡大します。

 上の図によれば、かつて、川内と東野の間は川で仕切られていました。下の地形図に当てはめると、①の位置に当たります。ただし、洪水の度に川の流れが変わったかもしれません。どこまでも、推定です。また、図の中に、保田藪という地名が登場します。この地域の開拓の歴史のうえで、重要です。

 古川(地形図の②)は、かつては太田川の本流でした。1607年の大洪水で川の流れが変わり、分流となりました。古川自体も、洪水の度に流れが変わりました。度重なる洪水の結果、古川の上流が、第一古川と第二古川に分かれました(下の道路地図参照)。

1607年以後の古川は、水の量が少ないのに、川幅はほぼ昔のままでした。そこで、安川の水を古川に流す工事が行われました。安川新流路(地形図の③)が、1955年に完成しました。廃川となった下流の安川(安川廃川敷、地形図の④)の一部は、安川緑道という公園(下の写真)になりました。

 川内(川の内側、という意味)は、太田川と古川にはさまれた中州のような土地でした。砂地で稲作には適さず、しかも、常に洪水の危険がありました。ここに、「安芸武田系の開拓農民」が結集したのです。

第26章、温井八幡神社その2、安芸武田系開拓農民

温井八幡神社内の掲示板の続きです。

 1532年、中調子村(川内南部)、武田元繫(もとしげ)の弟横山光重が帰農し中調子の中心人物となる。

 1540年、温井村(川内北部)、武田元繫の次男が保田家に入り帰農し、保田薮を作り温井村の開墾(五十町)を始めた。これ以後温井村の開墾が続く。

 このころ川の内水軍の関係者及び武田の侍が川内地区に多く散在し帰農した(1541年に安芸武田氏滅亡)。

 芸藩通志「沼田郡古家」の項目には、「中調子横山氏、先祖横山光重は、武田元繁が弟なり。姪(甥ではないか?)光和(みつかず)を立てて後、品川・内藤ら(いずれも武田の重臣)に讒せられて(讒言ザンゲンの意味)、軍事にあづかるを得ず。遂に、農となる」と、記録されています。

 また、芸藩通志「高宮郡古家」の項目には、「東野村保田氏、先祖、武田光繁(光和のことか?)が弟、源之丞(げんのじょう)光政、村の保田に屋る(やどる?)。其子(そのこ)光之、大に保田の地を開く」と、記録されています。

 次は、現代の文献です。

 現在の安佐大橋の西岸は保田、東岸は向保田、翠光台団地の下方は上向保田と呼ばれていた。

  安芸武田家当主の弟に、病身で武士を好まぬ人がいて、その人が使用人にこれらの土地を開墾させた。(広島市東野公民館、編「ふるさとの今昔、第二集、東野・中筋・東原」1999年、23-24ページ)

 当地を流れる太田川が小川だった時代には、両岸に五十町(約50ヘクタール)の広大な農地が展開していました。しかし、1607年の大洪水で川の流れが変わり、両岸の農地は水没してしました。

第27章、温井八幡神社その3、川内水軍衆と真宗寺院

 温井八幡神社内の掲示板の続きです。一部に、難解な表現がなされています。

 「1550年、中調子八幡神社は甲斐の武田信玄の子武田義信を祈願している点で川内には神社が存在。

 1570年、当社付近にある浄行寺が1570年に禅宗寺院として建立され、1574年に浄土真宗に改宗している点で川内には寺が存在。

 1605年中調子の明円寺は川内水軍の福島を祈祷する寺として建立」。

 実在の武田義信と中調子八幡宮が無関係であることは、第24章で解説しました。

 川内水軍衆と、真宗との関係です。

 川内衆の中核となっていたのは、安芸武田氏の守護代を務めたことのある福島氏と考えられる。その構成員には、仏護持(現代の本願寺広島別院)や東林坊(現広島市中区寺町の光圓寺)を始めとする真宗勢力も含んでいた(河村昭一「安芸武田氏」戎光祥出版156ページ)。

 この地域の真宗勢力は川内水軍の少なからぬ部分を占めていたと推測される(河村昭一「安芸武田氏」戎光祥出版170ページ)。

福島大和守真道の次男が、1604年に中調子村(現、川内)で明円寺を開基しました。

 真宗は、発足当初から、僧侶の結婚と寺院の世襲が公式に認められていました。

明円寺第11世住職・福島大順は、1877年の進徳教校(後の崇徳高校)の創立に尽力しました。

 明円寺第13世住職・福島利美は、1954年に崇徳高校第3代校長となりました。さらに、福島利美は、1968年に認定こども園・みのり愛児園(明円寺に隣接)の初代園長となりました。

 福島氏が総帥を務めた水軍は、すでに消滅しました。一方、福島氏が開基した寺院は、今も残っています。これは、歴史の皮肉かもしれません(文中、敬称略)。