この世界の片隅に、愛をさけぶ

-中学1年で亡くなられたAさんの手記と思い出-

 

1.最後に会った1974

2.永遠の別れとなった1975

3.かつての級友が墓参りを続けた1976年―1980

4.私に3つの偶然が重なった2019

5.最後に、Aさんに贈るメッセージ

 

 

 1.最後に会った1974

 この写真は、広島市立皆実小学校62組の卒業写真です。撮影は、1974年の秋だったと思います。画面右上のAという苗字の人は、独りだけ別に写っています。実は、Aさんは、足から発生した骨肉腫のため長期の休学をしていました。

 Aさんと私は、5年生の時から同級生でした。私が初めてAさんに会った時から、その顔つきには独特の暗い影が感じられました。別に、Aさんのことを悪く言っているのではありません。当時、すでにトップ・スターの仲間入りをしていた山口百恵さんも、暗い影があると言われました。その時代は、「暗い影」という言葉が、女性への賛辞になることもありました。べつに、Aさんの性格が暗かったわけではありません。

 余談ですが、Cさん(黄色い枠で囲った人、写真の中央より少し右上にいる)は、20歳の時にミス広島に選ばれました。

 秋が深まった頃、私たち級友は、みんなでAさんのお見舞いに行きました。土曜日の放課後のことでした。当時、Aさんは、広島大学病院に入院していました。皆実小学校から広島大学病院までは、小学生でも歩いて行くことができます。

 この時、すでにAさんは、手術で片足を切断いたはずです。

私は、Aさんと、ほとんど話をしませんでした。どんな言葉をかけてよいのか、分かりませんでした。私がAさん会ったのは、この日が最後でした。級友たちと別れた後、私は、すでに廃線となっていた国鉄宇品線の線路の上を歩いて帰宅しました。そんなことだけは、今でも鮮明に覚えています。

 

 

 

 

 

 現在の、広島大学病院。手前の道路が、かつては国鉄宇品線の線路であった。そして、矢印のあたりが、「上大河駅(かみおおこえき)」のプラットフォームだった。

 2.永遠の別れとなった1975

そして、年が明けました。1975年の世相をひと言でいえば、「激変」と「下剋上」の1年でした。

 まず、プロ野球界で、激変が起きました。何と、広島東洋カープが初めてのリーグ優勝を成し遂げたのです。驚くことに、1972年から1974年までの3年間、広島カープは連続で最下位でした。それが、1975年には一転して、セ・リーグで優勝しました。さらに驚きなのは、1965年から1973年まで9年連続で日本一に輝いた読売ジャイアンツが、この年は最下位でした。完全な、「下剋上」です。

 

 政治の世界にも、「下剋上」と言える事態が起きていました。

 「三木武夫 Wikipedia」の一部を、引用します。

 三木がロッキード事件の徹底究明に努力した動機については、まず自らの政権危機に見舞われている最中に、復権に向けて活動を活発化させていた前首相の田中を追い落とす絶好のチャンスであると判断したためとする説がある。(中略)三木は金脈問題で首相辞任に追い込まれたとはいえ、強大な力を持ち続けている田中を倒し得る千載一遇の機会を捉えたとするのである。

 

 一部の週刊誌は、「田中派(本来なら自民党の主流派)の状況は、読売ジャイアンツに似ている。三木派(当時は政権を担当)は、まるで広島カープだ」と、面白半分に書きたてました。

 19754月から、私の生活も「激変」しました。私立の中学校に入学した私は、朝早く起きて路面電車で通学するようになっていました。中学で最初の1学期は、あわただしく過ぎ去りました。夏休みに入ると、ほっと一息をつくことができました。プロ野球界では、オールスター後の広島東洋カープが絶好調でした。当広島カープの快進撃と、それに対するカープファンの熱狂ぶりは、「赤ヘル旋風」と言われていました(赤いヘルメットが広島カープの象徴だった)。

 そうしたある日、小学校の時の同級生から、突然の電話がありました。何と、Aさんが亡くなられたのです。

 葬儀は、暑い夏の日差しの中で行われました。こんなに早く別れが訪れるとは、信じられませんでした。

 

 3.かつての級友が墓参りを続けた1976年―1980

かつての62組の同級生は、毎年夏休みに集まって、当時の担任のB先生と共に、Aさんの墓参りをしました。私たちは、1976年から1980年までの5年間、広島市中区寺町にあるAさんの墓に詣でました。20歳でミス・広島に選ばれるCさんも、毎年のように参加しました。

  私たちが高校を卒業すると、みんなで集まることは難しくなりました。それでも、私たちがAさんのことを忘れたことは、いちどもありません。

 4.私に3つの偶然が重なった2019

最初の偶然は、私が家の中の古い物を整理していた時に、小学校時代の卒業写真集と、卒業文集とを見つけたことです。2019年の1月のことでした。40年以上にわたって一度も手にすることのなかった2つの冊子を、ふと開けて見ました。そして、Aさんの手記が、私の手記と同じ見開きのページに残されていたことに気づきました。「やっと汽車がついた。ここは、小郡という駅だ」と、Aさんは書いています。当時の小郡駅は、今の新山口駅です。この時期のAさんは、普通にみんなと行動していたはずです。それが、23か月後に、Aさんは片足を切断するための手術を受けたのです。その時Aさんは、どんな思いだったのでしょうか。

 この時、私は、初めてAさんの住所を知りました。当時、広島市は政令指定都市ではなかったので、住所に「南区」とは書かれていません。

この住所は、葬儀が行われた場所のすぐ近くです。そして、この地域の2010年版の電話帳には、Aさんと同じ苗字の女性が載っていました。しかし、電話をしても、つながりません。手紙を書いても、「該当者不在」で返送されました。 

そして、最新の電話帳に、この人は載っていません。

 2つ目の偶然は、Aさんを知る人に遭ったことです。「活葉(かっぱ)」という喫茶店に、Aさんのお母さんがよく来られたそうです。「Aという名前は残っているが、Aさんのお母さんは数年前に亡くなられた」と、活葉の店員さんは語りました。「名前が残っている」とは、現存するAビルのことだと思います(「活葉」のすぐ近くにある)。今は、不動産会社がAビルを管理しているようです。

 3つ目の偶然は、私が、かつての担任・B先生と再会したことです。2019522日のことでした。B先生は、広島市内の介護施設に入所中でした。奇しくも、私の小学校入学から50年め出来事でした。「人間五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり」、これは織田信長が好んだ「敦盛」という舞です。

 5.最後に、Aさんに贈るメッセージ

 Aさん、あなたは、クラスの中でいちばん優れた人だったから、誰よりも早く神様のもとに召されたのでしょう。私たちクラスメートも、既に50歳を超えました。いずれは、Aさんの居る世界に旅立つことになります。その時は、また会いましょう。会えると、私は信じています。

 このサイトは。、2019年8月28日に公開した。また、下の写真は、同年5月6日に撮影した。

追記(2022年6月24日)

 かつての同級生との、Facebookでのやり取りです。

 私:1975年に亡くなられたAさんのことは、忘れられません。今でも、葬儀のことは鮮明に覚えています。

 葬儀の場所は、アトリエAだったと記憶しています。アトリエAは、10年くらい前に建て替わりました。夏の暑い日でした。直射日光を浴びながら、立ったままで参列していて、私は最後まで立っていられませんでした。Aビルの1階に収容され、冷たい水を飲ませてもらいました。そこが、Aさんの生家だったはずです(当時は、何もわかりませんでした)。Aビルは、今でもあります。私が最後まで葬儀に参列できなかったことを、今でも、Aさんに対して申し訳なく思っています。もっと体力をつけねばならないと思い、新学期からはサッカーを始めました。

 私が大学生の時、一度だけアトリエAを訪れました。しかし、その時は留守だったようです。Aさんのお母さんも2010年代に亡くなられと、人伝えに聞きました。ご冥福を、お祈り申し上げます。

 かつての同級生:Aさんは、幼稚園時代からずっと同じクラスだったんよ。忘れないことが一番の供養になると思います(^-^)

 

追記(2022年6月28日)

別の同級生との、Messengerでのやりとりです。

おはようございます。FBもあまりきちんと見てなくて、上西が828日にアップされたAさんの手記と写真を今朝読みました。Aさんのことよく覚えています。実は、みんなが広島大学病院にいったとき、クラスで僕だけ「行けなかった」こともよく覚えています。僕の母親と弟が行ったことも覚えています。僕が何故行けなかった(行かなかった、、、)のかも実はよく思い出せないのです、、、。このことは、今になっても、僕にとっては、ずっと忘れることのできないイベントです。Cは、ミス広島になったのですね、全く知りませんでした。今はきっと結婚してもしかすると孫がいたりするのでしょうかね?B先生に5月に会われたとのこと、お元気でしたでしょうか?もし、どこの介護施設に入られていて、面会が可能な状況であれば、是非、広島にすぐにでも行ってお会いしたい気持ちはあります。(以下、略)

追記、2023年1月8日、B先生は2021年中に亡くなられました。

 ご連絡ありがとうございました。

 母は、昨年九月四日に老衰でなくなりました。99才でした。100まで生きると、言っていましたが叶いませんでした。最後まで意識もあり施設の方々に暖かくみまもっていただきました。子供は、…みとることができました。コロナ渦のなか、面会も充分にさせていただきました。 

 お気遣いありがとうございます。

追記、2023年3月5日、当時のAさんを深く知る人と、メールを交換する機会がありました。

同級生:Aさんは今でも覚えています。よく一緒に話しましたし、お見舞いにも行きました。お墓参りにも行きました。膝が痛くて亡くなるとは、大人になってわかりました(腫瘍は、膝から始まった)。C(ミス広島)は、高校も一緒でした。

上西:後で思い出したのですが、Aさんは、修学旅行の時、すでに、支えられて歩いていましたね。

同級生:脚を切断して、抗がん剤で髪の毛が、なくなって、かつらをみせてくれて、これで(中学校の)入学式に行くのよって言ってました。お医者さまの説明にも取り乱さず泣かずに聞いておられた、とお母さんから聞きました。お父様もガンで亡くなられたすぐ後のことだったようで、子どもながらにソワソワしました。運命なのでしょうか。

上西:Aさんのお母さんを、ご存知だったのですね。私が大学生だった時、一度だけ、アトリエA(葬儀があった場所)を尋ねましたが、不在でした。運命かどうかは、わかりません。

 同級生:いちばん悲しいかったのは彼女(Aさんの母)ですかね。お母さんは強い人だと思います。

上西:多分そうですね。

上西:お母さんに哀悼の気持ちを申し上げたかったのですが、できませんでした。2010年の電話帳には、お母さんの名前が載っていました。

同級生:がんばらなくて生きていることがよいのかどうか。

 

上西:がんばる必要は、ありません。生きていればそれでいいのです。いつまでも生きられるわけではないのですから。